Realに生きる

食と自我・精神・霊性 

数字に支配されたらアカンやろ

世の中の多くの人は、数値化されたものを信じ込まされて、苦しんでいるのだとおもう。

 

子どもの頃は、テストの点数で評価され、社会人になっての業績も数字、給料の額も数字、病気になってもぜーんぶ数字で評価される。

 

いまの感染症もそう。

 

いつのまにか、多くの人は、実態、実体を見ずに数字でしか判断しなくなっている((( ;゚Д゚)))

現実から遠ざかってる。

 

テストの点数で測れないよい部分は評価できない感性。学校の先生も忙しすぎて、子ども一人一人の良さをみれないのか。

親も世間の評価ばかり気にして、同じように学校の成績で子どもを評価する。

 

医者も、患者を診ずにパソコンばっかりみてる。

コロナで大騒ぎするけど、従来のインフルエンザの方が目に見えて、現実的に、感染してる人を見る。

 

高齢者は、いつもテレビばっかりみて、ニュースで流れてくる数字に一喜一憂してる

高血圧、高脂肪となんでもかんでも病気にされて、大量の薬を飲んではる。

余計に病気になりそう。みんな、心も病んでいる。薬飲んでもなおらんよ。

 

日本人ってもっと感性豊かだったやろ。

でも、日本人の豊かな感性を殺すような、仕組に世の中かはまりこんでいる。

 

数字はわかりやすいけど、嘘もつきやすい。

 

自分の体や心が感じている感性、感覚を大事にする教育、家庭でも学校でも、会社でも、どこでも、取り戻しましょうや!

もう、いい加減にしましょうや。

 

 

愛と自由 その2

シュタイナーについて、書こうと思い、もう一度本を読みなおしました。言葉が難しい。アントロポゾフィ=人智学は「人間」を深く深くとらえた哲学です。

人間は肉体に対して、魂と霊が働きかけて動いていると、オカルティズムな考えですが、これは、日常生活でもよく考えてみたらだれにでも起きていることです。

簡単な絵を描いてみました。肉体は大地で生命力です。肉体が滅びると、魂と霊が体から離れ、フワフワとする。死は大地から離れていくことです。

シュタイナー哲学はドイツ観念ロマン派から続いている思想です。多くの哲学者が神秘体験をもとに説かれていた哲学で、人間という存在は、霊体が魂に働きかけ、それを魂が受け取る(意識する)ことで体は動くと。その動力は感情です。

霊からの働きかけを受け取るには、人間の感性、五感以外にシュタイナーは12の感性があると言っています。その感性を乳幼児期、青年期に育てることで、本当の意味での自由を獲得できると言っている。自由を獲得するには、感性を育てる、感情表現を学ぶ必要があるということです。(表現方法を学ばないと感情は暴れるときがありますよね)

 

自我は、霊性、魂・心、肉体全部を含めたもので、宇宙と繋がっているものです。日本人は、もともと霊的なものに対する器は持ち合わせていました。八百万の神、あらゆるものに神が宿るという感性が日常生活の中に浸透していた。しかし、戦後は霊を否定する人が多くなった。神の名をもって悪いことをする宗教団体のせいでしょう。宗教という組織ではなく、自然の中で、自分の心に働きかけてくるもの、それは、本当の自分と感じます。

 

皆さんも体験したことがあるでしょう。自分の心は●●と思っている、でも、世間が、マスコミが、友達が、こう言っているから合している、本当は嫌だけど…みたいなことです。自分の心は喜んでいないことをやらされる、お金のため、出世のため、など計算が入ってしまう時です。自由ではないのです。

 

心に働きかけている本当の自分、霊性、宇宙からの働きかけ、ご先祖、DNA、などいろいろ言えますが、私たち人間は、いつも何かによって守られています。これが愛です。

社会で本当の自由を獲得するための肉体と感性を育てていくのがシュタイナー教育です。自我を育てていくことです。自我はわがままではありません。地に足をつけながら自由な精神である「私(肉体、魂、霊)」ということです。

 

 

愛と自由

「愛」と「自由」について考えてみました。

多くの人が、管理社会の中で「自由」を求めています。サラリーマンの人は会社で不自由な思いをされているでしょう。しかし、大きなモノに守られています。

反対に、自営業は押さえつける存在はなく、「自由自在」です。なにをしても自己責任で、自分自身が管理していく必要があります。

 

これを子育てに置き換えると、母の愛は柔らかい優しいオーラで子を守ります。これが過剰になると重い重いエネルギーになり、管理的になります。

子どもは成長したい欲求があり、そのカベを取り払って成長していくでしょう。重い重いエネルギーがあれば、それを振り払うために大きな反抗で親を振り払っていくでしょう。それは、生きている人間が持つ本能的欲求で、上に引っ張り上げていく「自由」という力です。

 

「愛」は、何かヴェールのような柔らかいもので覆いかぶされるような「守る・守られるエネルギー」で、「自由」は、そのヴェールをはがし外に飛んでいく力。成長するエネルぎー。

「愛」が重いと固く分厚い壁のような覆いになり、「自由」にほど遠くなってしまう。

「愛」が軽いと、フワフワして「自由」は不安定な拠り所のないものになってしまう。

 

意識の話ですが、意識は体に影響を与えます。

ルドルフ・シュタイナーは、愛と自由について宇宙のエネルギーという表現でお話されていて、とても面白いです。

次回、すこしまとめてみます。

 

 

自分を信じること③母となった女性のアイデンティティ

最近の女性は、職場や社会での活躍の場も増えて、男女の性差関係なく、その場にあった能力がある人はリーダーとして活躍されています。

職場でも役職となり責任ある立場になる女性も増えて、保育所に預けてなんとか子育てをすることができている状態です。

仕事と子育ての違いは、「結果(評価)の速さ」です。仕事は結果や評価がわかりやすいです。職場で活躍する人は、学生時代に一生懸命勉強して、成果を目に見える形で上げてきた方が多く、自分のアイデンティティを社会での役割に重ね合わせてきたと思います。男性と同じです。

 

妊娠して母親になると生活が一転します。子育てはなにかをしてあげたからといって結果は出ない、やってもやっても泣くし、終わりがないと感じて追い詰められてしまう人もいます。だれもほめてくれません。核家族の時代、子育てが始まると子どもと二人きり、保育所が決まるまでは誰とも話さず、助けてもらえない、苦しい子育てのはじまりはじまり。

 

アイデンティティって何でしょうか。どの役割に没頭するのか、親の選択で、子どもの人生のスタートラインが決まる。

大人が選んだ役割で、その環境も選択し、苦しい子育てにするのか、楽しい子育てにするのかは、その方のもつ価値観によると思います。

価値観ってのは、日本社会では、マスコミによるその他大勢の同じような価値観になる傾向があります。専業主婦を見下したりする風潮がありますが、お母さんという役割の価値がこの十数年下がっています。

 

お勉強ができてお金を稼ぐ人が偉い、と。絶対間違っていると思います。

 

自分を信じること②親のアイデンティティー

前回は、生理的欲求を満たすために、親にたいしていろいろ働きかける赤ちゃんを考えました。今回は求められる側の心を考えてみます。

自分もお母さんを体験して、お腹にいる間からすこしずつお腹にいる赤ちゃんに対しての愛情が育っていく感覚を持ちました。ただ、その感覚を持つには周囲の人の支えや協力があり気持ちに余裕がないと、妊娠中の母親の不安が大きくなり、赤ちゃんへの思いより自分に対する心配が多くなると思います。周囲の環境は本当に重要です。

 

生まれてきた赤ちゃんに対して、責任を感じると同時に所有感もあったと思います。おっぱいをあげた瞬間に、「わたしはこの子のご飯だ」と赤ちゃんにとって自分は必要な存在であると感じました。

自分は、これまで他者に心底求められるという体験はなく(恋愛は駆け引きで純粋ではないと思う)赤ちゃんが、ほんとに自分を求めているという実感があり、私の自尊心は本当に満たされました。赤ちゃんと一体になる感覚を持ち、常に赤ちゃんのことを考えていました。そして、求められている自分がとても幸せと思っていました。自分にしかできない役割という「自尊心」です。

「ボウルビィーの愛着理論」で表現されているように、体も心も一体となり、母親は赤ちゃんに没頭する。ユングでは母性は飲み込む力のような表現でありましたが、そういう感じで、自分の意識の中で赤ちゃんを包み込んでいる感覚を覚えています。

赤ちゃんが本能的欲求を満たし、母親は自己実現を満たす、マズローのいう欲求はお互いに満たされることで成り立つのだと思います。この三角形の中の欲求は、成長の段階で起きるのではなく、何回も繰り返して起きていると感じています。

 

こ育てに没頭し、赤ちゃんも親も満たされる、これがそれぞれの自信につながっていきますが、これらには周囲の援助がないと無理なんです。生きていくにはしなければいけないことが山ほどありますが、それを代わりにしてくれる他者の力が必要です。

 

自分を信じること① マズローの欲求五段階説

小さな子どものころは、自分を信じるという感覚はなく、本能のまま、やりたいことをやります。しかし、自分のやることを否定する大人が周囲にいて、あれもあかん、これもあかん、とたくさんの「ダメ出し」を受けるようになります。

自分のやることなすこと、親に怒られ、先生に怒られということを繰り返すと、怒られたくないために相手のいうことを聞いて、自分の欲求を抑えます。

 

マズローの欲求五段階説』は、欲求が満たされることで得る自己承認、自己実現への道を分かり得やすく表現されていると思います。これは、順番が変わることもあると思います。大人になってもどこかが欠けていると、生活の中で何かが引っかかって躓いてしまうことがあると思います。

欲求は、①本能的欲求、②安全の欲求、③所属と愛の欲求、④承認の欲求、⑤自己実現の欲求 と分けられています。

①本能的欲求は、食べる、寝る、排泄、性欲と人生命保持のための基本的な欲求です。人間の赤ちゃんは、一人で生きることができません。自分を育ててくれる人に依存することではじめて満たされる欲求です。ここで、与えてもらわないと生命維持ができません。

 

親が子を放置してしまうような環境で育った子どもは、この欲求を満たすために親などの養育者に働きかけます。ほとんどが泣いて表現しますが、笑顔をふりまくことなど、相手が自分を放っておかない方法を見出していくのだと思います。

 

相手が自分を放っておかない、生かしてくれている存在を信じる。相手が生かしてくれる自分という存在を信じることができる。

自分を信じること、自信を持つことは、日々の積み重ね、体験によって持つことができます。それは、赤ちゅんにとって周囲の働きかけ次第とおもいます。

 

乳幼児を育てるとき、親は自分の時間をすべて赤ちゃんに捧げる覚悟が必要です。

覚悟とは字のごとく、「我慢」ではなく「目覚めて悟る」、悟る=諦める=明らめる=明らかになる=現実を見る=目覚めることです。

 

我慢は苦しいです。だから子育てが苦しいのです。我慢じゃなくて、子育ての時間をあかちゃんに捧げることの覚悟を持って、その時間を楽しもう、と思う気持ちに変える。

人生100年時代で、子育てはほんの数年間。あっというまです。

赤ちゃんが自分の働きかけによって、成長していく姿を楽しむことができます。いろんなことを知る機会ができます。

 

自己表現 エネルギーの発散

職業上、多くの食べる人を見てきましたが、たくさん食べる人と小食のひとの「オーラ」が全くちがいます。たくさん食べる人はエネルギッシュで、体からの熱、炎を感じます。小食の人は、その体から発せられる炎を感じないのです。

そして、炎の出方が人によって違う。現在の生活環境や生きてきた経歴によって色や強さが違う。

 

昭和の終わりごろから、「クール」でいることが格好良いとされ、「感情的」であることが格好悪く馬鹿にされるという風潮がありました。

そのせいか、平成の時代はクールを装う人間があまりにも多く、感情表現できずにどこかで崩れてしまう。昭和時代は外に現れ、ヤンキーが多く暴力をふるう人が多くいましたが、平成時代はエネルギーをうちに閉じ込め「ひきこもり」が多くなり、自殺してしまう人も増えました。他者からの目を気にしすぎて、感情表現をできず、感情が自分の体の中で燃える、体を焦がしてしまうようなことが起きているのだと感じます。

 

昭和時代は、演歌や映画、どこにいっても自由に表現できる環境がありました。昭和の終わりごろから自由すぎる表現を受け止めることが多くの人ができなくなってしまったのだと思います。

感情をコントロールすることばかり言われるようになり、自分の感情を思いっきり表現することが難しくなりました。受け止めてくれる人が少なくなりました。自分の親でさえ、受け止めてくれない。親自身の感情表現ができない環境でいっぱいいっぱいなんだと思います。

 

出る杭は打たれる、変わったことをする人は嫌がられる環境で自己表現するには、

他者からの圧力を突き抜けるエネルギーが必要です。

そのエネルギーは「自分を信じる力・自信」です。

では、自分を信じるにはどうすればよいのでしょうか。

 

Real に生きる

今の世の中で起きている、様々な出来事をよーく観察して、洞察して、

自分の直感を頼りにしながら、

濁流にのみこまれないように どの道を歩くかは自分で決める。

あまりにも多くの選択肢があり、迷うこともあるけど

自分の中にある本当の自分は、いつも本当のことを言ってくれている。

自分のことを信じないで、

ほかの人が言っていることや、テレビで言っていることや

本で書いてあることばっかりを信じるように教育されてきたけど

今、現実で起きていることは、どうもおかしい。

皆、そう感じているはずだけど

怖いものには目を向けたくない、感じないようするなど

自分の中の本当の声を無視してはいけないと思う。

Realとは、目に見えていることだけでなく、

自分の体や魂が感じている世界もRealなんだ。

全体で観て、感じて。人間の感性はコンピュータより優れている。